Gado-Gado vs Pecel Lele

23 Januari 2010

International Mass In Sendai

元寺小路教会でインターナショナルミサに参加して(九月二十七日)

わたしはあなたがたを友と呼ぶ


9月27日(日)、元寺小路教会で仙台中央地区6教会合同のインターナショナルミサがささげられ、500人ほどが参加した、このミサのテーマはわたしはあなたがたを友と呼ぶ(ヨハネ15:15)からとられた、ミサはエメ 神父、このミサは、様々な外国人がいって色々な外国語で神様に賛美して、とても素敵なミサだと思います、私はこのミサの中に共同祈願の読む人に選ばれ、インドネシア語で皆の前に祈りました、そのほかはスパイン語や中国語やフィリピン語でお祈り人もいました、このミサに参加して神様にコムニケションとは国や言葉で限らないと感じました、




では、その「友」とは何でしょう。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:14)と告げますが、命を捨てるのが イエスである以上、イエスを愛する弟子、信徒、そして読者こそが、イエスの友であるということになります。イエスの言うように、愛することを行うならば、 友と呼ぼうと言います。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない」(ヨハネ15:15)というのです。


友は、僕と対比されています。僕は、時に奴隷と訳されうる語ですが、言いなりになる奴隷というイメージで捉えてよいのかどうかは疑問です。ローマにして も、ヘブライ文化にしても、奴隷という立場は、極端に虐待されていたというのとはまた違うように見受けられます。召使いのように捉えるとよいとも言われま すが、ここで私は現代的に、「ビジネス」という概念をもってこようと思います。もはや、ビジネスでつながるような関係ではない、と考えるのです。「僕は主 人が何をしているか知らない」(ヨハネ15:15)というのは、とりあえず言うことに従っておけば、自分の利益を中心に据えていながら表面上だけ相手の顔 色をうかがうような関係です。ビジネスでは、腹の底を見せるようなことはしません。しかしイエスは従う者たちに、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から 聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15:15)と言ったのです。


弟子がイエスと同じ神になる、などということではないのです。神が人となった、というのは間違いないのですが、神が人と同じ地位に堕ちた、ということで もありません。地位や立場の違いは歴然としておきながら、それでも、本音で語り合うことのできる関係が築かれた、というところをイメージしてみたいので す。


そのミサの説教の中で一番気にいってるのは神は、私たちがもてなしてもらいたいように隣人をもてなすことを促しておられます。私たちが、この地上の短い道程を共に分かち合う人たちの人生をより良くしていくために、愛し、仕え、出来る限りのことをするように私たちを促しておられます。他人に仕えることで、私たちキリスト信者の共同体の単なる日常性が改められるばかりではなく、私たちの共同体のきずなやつながりが豊かなになっていきます。人々がお互いの違いを脇においてひとつの共通の目標に向かい、共に犠牲を払うことに同意した時に、壁は打ち壊れ、協力が容易となり、そして全て可能となるです。最後に、次のことを思い出しましょう。私たち一人ひとりが皆、神の子としての豊かな品位に恵まれ、他人の中にそれを認め合い、私たち全てが家族やキリスト信者共同体へ同じ愛を求め共に充実した人生を生き抜いて、その完成に向かっていることを{わたしはあなたがたを友と呼ぶ}

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